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2025.4.12

「エルヴィン・ヴルム 人のかたち」(十和田市現代美術館)開幕レポート。なにが「人」をかたちづくるのか

エルヴィン・ヴルムの美術館における日本初個展が十和田市現代美術館で開幕した。会期は11月16日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、《学校》(2024/25)
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 オーストリアのアーティスト、エルヴィン・ヴルムの美術館における日本初個展が、青森・十和田市の十和田市現代美術館で開幕した。会期は11月16日まで。担当は同館キュレーターの中川千恵子。

 ヴルムは1954年ブルック・アン・デア・ムーア生まれ。ウィーン応用美術大学とウィーン美術アカデミーで学び、現在はウィーンとリンベルクを拠点に活動している。これまでの主な個展に、「Deep」(国立マルチャーナ図書館・コッレール博物館、2002)、「Trap of the Truth」(ヨークシャー彫刻公園、2023-24)、「Erwin Wurm Photographs」(ヨーロッパ写真美術館、2020)などがある。また「第57回ヴェネチア・ビエンナーレ」(2017)ではオーストリア館でその作品が展示された。

エルヴィン・ヴルム

 ヴルムは十和田市現代美術館の常設作品も手がけており、館外にある 《ファット・ハウス》《ファット・カー》は、市民にもなじみ深い作品だ。本展はヴルムの国内初個展となる。

展示風景より、《ファット・ハウス》《ファット・カー》

  最初の展示室には細長い建物状の作品《学校》(2024/25)がある。赤い屋根と黄色い外壁という要素は、オーストリアで見られる一般的な学校のものだが、その外観は細長く歪にゆがんでいる。内部にある机や椅子なども建物と同様に圧縮された形状であり、足を踏み入れると強烈な圧迫感がある。

展示風景より、《学校》(2024/25)
展示風景より、《学校》(2024/25)

 室内で目につくのは、壁面に貼られている、青森の子供たちが過去に目にしていたと思われる印刷物の複製の数々だ。なかには国威発揚のためのメッセージを記したものもあり、現在の価値観からすると、これらが学校で教えられていた事実は受け入れがたい。物理的に歪んでいる校舎内で、このような過去の価値観を展示することで、学校で教えられる知識や常識の価値が時代とともに変わっていくことを強調していると言えるだろう。もちろん、それは現代においても例外ではない。また、ヴルムの故郷であるオーストリアと日本は、第二次世界大戦で敗戦し、その教育が根本から見直された経験を持つ。両国の関係を念頭に置けば、本作をより現実的な問題提起として受け取ることができる。

展示風景より、《学校》(2024/25)

 ヴルムの代表作のひとつに、作家自身、あるいは参加した人々に不自然なポーズを取らせることで彫刻化するパフォーマンス「一分間の彫刻」がある。本展で展示されている「修道士と修道女」シリーズや《馬鹿 その2》(2003)、《慈悲を乞う作家》(2002)といった作品も、同シリーズの系譜にあるものといえるだろう。

展示風景より、「修道士と修道女」シリーズ(2002)

 あらゆる人々は静止することで彫刻になる。「修道士と修道女」シリーズでは長い歴史の伝統を引き継ぐ神聖な役職の人々が、《馬鹿 その2》《慈悲を乞う作家》では展覧会の主体である作家自身が奇妙な彫刻となっており、それぞれの持っている権威性が揺さぶられる。

展示風景より、左から《馬鹿 その2》(2003)、《慈悲を乞う作家》(2002)

 また、ヴルムの作品には、身の回りのものをメディウムとするという共通項が見いだせる。なかでもヴルムが繰り返し作品に使用してきたのが洋服だ。《吊されたセーター》(1990/2025)は市販のセーターの形状を歪ませて彫刻的に展示したもので、本来であれば身体に密着するニットのセーターを歪ませ、標準的とされる身体に疑義を投げかける。

展示風景より、《吊されたセーター》(1990/2025)

 《精神》(2025)は展示室全体にセーターを着せたような作品だ。室内全体をセーターで包むことにより、身にまとうものとしてのセーターの意味がゆらぐ。加えて室内では、衣服を様々な方法で着用する人々を映像に記録したヴルムの初期作品《59のポーズ》(1992)が上映されており、衣服を通して人々に身体の在処を問いかける。

展示風景より、《精神》(2025)

 最後の展示室では「平らな彫刻」シリーズと「皮膚」シリーズを見ることができる。壁面に飾られた「平らな彫刻」シリーズは、一見すると絵画に見えるが、タイトルのとおりヴルムはこれを彫刻ととらえている。各作品のキャンバス上にペイントされているのは作品タイトルの文字であるが、その文字は上から押されたかのように潰れていて、可読性が著しく低い。平面として解釈されることがあたりまえである文字に、押しつぶすという立体的な概念を与えることで、彫刻としての三次元性を付与している。

展示風景より、奥が「平らな彫刻」シリーズ(2021)、手前が《立っている花 2》(2020)

 展示室中央にある「皮膚」シリーズのひとつ《立っている花 2》(2020)は、一見すると何かしらの花の彫刻に見える。しかしながら、下部にスニーカーが存在することで、本作が「立っている人物」の身体が大きく削られた状態の彫刻であることに気がつく。身体はどこまで削り取られると身体ではなくなるのか、あるいはすべて削り取られてもそれは身体なのか。そんな問いが投げかけられている。

展示風景より、「平らな彫刻」シリーズ(2021)と《立っている花 2》(2020)

 会場をあとにした来場者の多くは、館外にある常設作品《ファット・ハウス》と《ファット・カー》の前に足を運ぶことになるだろう。周囲の住宅や自家用車とは明らかに違う、膨らみ歪んだ車と家。なぜ、私たちはこれらを車と家だと認識できるのか。そもそも、目の前のものを認識するとはどのようなことなのだろうか。ヴルムは、我々の認知が様々な圧力によって初めて成立していることを、この興味深い作品群によって問いかけている。

展示風景より、《ファット・ハウス》
展示風景より、《ファット・カー》