2025.4.26

岡本太郎美術館で見る、《太陽の塔》を探る「入門編」

大阪・関西万博が開催されるなか、川崎市岡本太郎美術館では企画展「岡本太郎と太陽の塔―万国博に賭けたもの」が開幕した。

文・撮影=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

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《太陽の塔》を探る「入門編」

 大阪・関西万博が世の中を賑わすなか、川崎市岡本太郎美術館では企画展「岡本太郎と太陽の塔―万国博に賭けたもの」が開幕を迎えた。

 1970年、大阪で開催された「人類の進歩と調和」をテーマとする日本万国博覧会。そのレガシーとしていまなお人々を魅了し続けるのが、言わずと知れた岡本太郎の《太陽の塔》だ。岡本がテーマ展示の一部として会場中心に据えた《太陽の塔》は建設当時、モダニズムと相容れない独特の外観で賛否を巻き起こした。また、内側の構成も「人類の進歩と調和」に異議を唱える岡本の思想が反映されたものだった。

 テーマ展示の地下空間は「過去・根源の世界」を表現するためにいくつかのゾーンに分かれ、「いのり」の空間では人類の心の奥深くに通底するものとして、世界各地から収集された仮面や神像などの民族資料が展示された。原初的で神聖な祭壇を想起させる展示プランも、岡本の発案だ。

 今回の展覧会は、民族学を源泉とし、国内の取材旅行を通して形成された岡本の思想から《太陽の塔》を探る「入門編」。岡本が縄文の美の発見後、フィールドワークで撮影した写真を紹介するほか、《太陽の塔》の制作記録や同時期の作品を通して塔の内外がかたちづくられた過程をたどるものだ。

民族学との出会い ―パリ時代の岡本太郎

 展示は第1章「民族学との出会い ―パリ時代の岡本太郎」、第2章「人間の原点を求めて ―取材旅行と執筆活動」、第3章「万国博前夜 ―「明日の神話」と「太陽の塔」」、第4章「「太陽の塔」の地下空間」、第5章「万国博が残したもの」の5章構成。

 第1章では、東京美術学校を中退し、パリへと渡った若き日の画業を振り返る。パブロ・ピカソの静物画に出会った衝撃から抽象絵画を志すようになった岡本太郎。この章では、10年半におよぶパリ時代の代表作である《痛ましき腕》(1936)などとともに、岡本太郎が旧蔵していたマルセル・モースの著書も展示することで、パリ滞在で社会学や民族学を学んだ足跡を振り返る。

展示風景より、右が《痛ましき腕》(1936)

人間の原点を求めて ―取材旅行と執筆活動

 第二次世界大戦勃発の翌年、1940年のドイツ軍によるパリ陥落の直前に最後の引き揚げ船で日本へと帰国した太郎。帰国の翌々年に召集を受け中国戦線へ出征し、46年に復員した。その後、花田清輝らと「夜の会」を結成するなど、前衛芸術運動を牽引した岡本だが、50年代からは日本文化や風土の探究に注力するようになる。

 その成果は、東京国立博物館で「発見」した縄文の造形美を論じた「縄文土器論」所収の『日本の伝統』(1956)や、『日本再発見一芸術風土記』(1958年)などの著作に代表される。2章では、そうした著作に関連する岡本が撮影した縄文土器や土偶の写真を数多く展示。岡本太郎が何を見つめていたのかをたどることができる。

第2章展示風景より
第2章展示風景より

万国博前夜 ―「明日の神話」と「太陽の塔」

 第3章は、1967年5月に大阪万博のテーマ展示プロデューサーへの就任を打診されてからの動向を振り返るもの。岡本は大阪万博の「人類の進歩と調和」という近代化を賛美するテーマに否定的だったが、最後には丹下設計の大屋根を塔で突き破るプランを携えて、テーマに挑む道を選んだ。

展示風景より、作者不明の《太陽の塔》の図面

 また、この時期岡本は視察を兼ねて欧米と中南米を巡る旅に出ており、メキシコで壁画制作の打診を受け、帰国後すぐに「明日の神話」の制作準備に取り掛かっている。

 同時期に準備と制作が進められた《太陽の塔》と《明日の神話》。この章では、当時の新聞に岡本太郎が寄せた万博に関するテキストや座談会の記録、作者不明の《太陽の塔》の図面、また《明日の神話》の4つある原画のうちのひとつが並ぶ。

展示風景より、《明日の神話》(1968)
第3章展示風景より

「太陽の塔」の地下空間

 第4章は、岡本の民族学の知見が活かされた《太陽の塔》の地下展示にフォーカスしたものだ。地下はいくつかの空間に分かれ、そのうちの「ちえ」と「いのり」の空間では世界各地の民族資料が展示された。

 この章には、昭和女子大学光葉博物館と武蔵野美術大学 美術館・図書館 民俗資料室が所蔵する民族資料を、地下展示の記録写真、岡本太郎の作品とともに展示。岡本太郎が「人間の原点」をどこに見出していたのかを想像しながら、各資料と向き合ってほしい。

第4章展示風景より
第4章展示風景より
第4章展示風景より

万国博が残したもの

 最後の5章では、70年万博開幕前後の世相を伝える資料とともに、《太陽の塔》の70 年当時の地下空間と大屋根の展示を蘇らせる再現映像を展示。これは日本工業大学の歴代の学生たちが7年間にわたり制作・改良を続けてきたVR作品であり、本展では映像(2D)化されたものが展示室で見ることができる。

 万博が終わったあと、《太陽の塔》は異例の永久保存となり、いまなおその姿を大阪の地でとどめている。また地下展示のために収集された民族資料は国立民族学博物館の収蔵品の柱となるなど、その影響力はいまなお継続していると言っていい。1970年から55年の時を経て、新たな大阪・関西万博が開かれるなか、本展はあらためて岡本太郎が《太陽の塔》にどのような想いを賭けていたのかを知る好機だ。

《太陽の塔》の再現映像