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2026.3.29

白木谷国際現代美術館とは何か。通常営業を終える「高知の前衛」の最終到達点を見る

高知県・南国市の山間部、笠ノ川川沿いにある白木谷国際現代美術館。高知の前衛集団として1960〜70年代に活躍した「前衛土佐派」で当時最年少メンバーだった美術家・武内光仁がつくった私設美術館だ。武内の前衛作品ともいえる本館、今後の存続も含めてレポートする。

文・撮影=安原真広(編集部)

「白木谷国際現代美術館」、武内光仁《青い基地》。掛軸に描かれているのは武内の母の言葉
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 高知市街から車で約20分、四国山地の山肌を流れる笠ノ川川沿いにある白木谷集落。この集落に張りつくように建てられているのが、美術家・武内光仁(1947〜)が家族、知人の協力のもとつくり上げた私設美術館・白木谷国際現代美術館だ。同館は2002年ごろより建設が開始され、09年に開館した。

白木谷国際現代美術館の入り口となる《北の門・南の門》。ほかにも武内を写した写真やカラオケセットなどがある

 武内は1947年に白木谷に生まれた。1960代は高知の前衛集団「前衛土佐派」の最年少メンバーとして活動。以降、高知県展で出品を続け、90〜00年代は東京の画廊で個展を多数実施、2004年には静岡県伊東市の池田20世紀美術館で個展「宇宙と人間の霊媒師―武内光仁の世界―展」を開催する。「栄光のネオ・ルネッサンス展」(フィレンツェ、2003)、「ブルガリア国際芸術博覧会」(ソフィア、ブルガリア、2006)、「Heart Art in Moscow展」(モスクワ、2007)といった国際展にも参加し、09年に白木谷国際現代美術館を開館させる。同館で年4回ほどの企画展を開催しながら、制作を続けてきた。

 武内は2022年ごろに罹患した新型コロナウイルスの後遺症により、現在は制作や館の運営を行える状況になく、館は妻の武内嘉子氏が保守している。これまでは通常の開館を続けてきたが、3月30日を最後に通常営業を終えることが決定。4月から5月にかけての大型連休で開館する可能性はあるものの、内部を観覧する機会は限られたものとなる。

個人作品としての美術館

 同館は館そのものを武内の前衛作品と見るのが正しいだろう。館内では武内が病に伏せるなか、2022年より企画展「どんなことがあろうともしっかり頑張るぞ! 白木谷国際現代美術館は」展が開催され続けている。館の内外の様子をレポートする。

白木谷国際現代美術館の外観。制作する武内の写真(右)と、武内と浜口富治が酒を酌み交わしている写真(左)が強烈な印象を与える。すぐ裏手は岸壁となっており、下に笠ノ川川が流れている
受付でもある喫茶スペース「CHAT HOUSE」。天井、柱や壁に武内が自身の手形を無数につけた

 美術館の外壁には、武内が作品を制作する写真、そして高知の前衛シーンで重要な役割を果たした美術家・浜口富治と酒を酌み交わしている写真が掲げられており、ただならぬ雰囲気を漂わせている。ここが美術館であることもにわかには信じがたい気持ちになる。

 館の受付は喫茶スペース「CHAT HOUSE」となっており、ここでは嘉子氏が煎れてくれたコーヒーを飲むことができる。カフェの壁面からテーブルにいたるまで、武内による自身の手形がつけられており、独特の佇まいとなっている。

《母体の中で見た厳しい現実の夢》を下から見上げた様子。木材の連なりのうねりの上で、天井に貼られたレーザーディスクの盤面が輝く

 《北の門・南の門》と名づけられた、黄色と青の開閉式の門から館内に入ると、1棟をすべて使った圧巻の巨大なインスタレーション《母体の中で見た厳しい現実の夢》が来場者を迎える。壁面が青く塗られた部屋に約1万個の木材が、床から天井にかけてうねるようにネジ止めでつなぎ合わせられて林立し、天井には無数のレーザーディスクが貼り付けられている。さながら密林に分け入り、木漏れ日を見上げるような体験ができる。

収蔵品が伝える武内の交友関係

 いくつもの鳥居が連なる渡り廊下《父母の門》を抜けると、武内の作家活動50年を記念して制作された《すてた50年、ひろわれた50年、生かされた50年》が展示されている。原色で彩られた波形の門をくぐると、鏡を用いた屏風と祭壇のような小上がりがつくられており、そこに置かれた三方の上には亀の甲羅が載せられ祀られている。

《すてた50年、ひろわれた50年、生かされた50年》。奥では「年の功」とかけたのか、亀の甲羅が祀られている
前衛土佐派を牽引した浜口富治の作品。左から《生きた日のモニュメント(2)》《生きた日のモニュメント(1)》(ともに制作年不詳)
高﨑元尚の作品。手前と壁面が紙の反り返りに着想し1963年以降断続的に制作された高﨑の代表作「装置」シリーズ、奥が書の作品
彫刻家・重村三雄による《美術評論家ヨシダ・ヨシエ先生像》とヨシダ・ヨシエと武内が写った写真の数々。ヨシダは同館の永久顧問となっている

 つづく展示室では、高知県美術展覧会の理事を務めた彫刻家の渡辺一八大(1914〜1974)、前衛土佐派で活躍した浜口富治(1921〜2009)、高﨑元尚(1923〜2017)らの所蔵作品が、作家ごとに紹介されている。また、美術評論家のヨシダ・ヨシエ(1929〜2006)を特集した区画なども用意されており、武内の交友関係をうかがい知ることができる。

東京都庁で展示された《青い基地》。周囲にはいくつもの平面作品が展示されている

 本館最奥の展示室の中央には、青い木製の小屋状の作品《青い基地》を展示。内部には武内が多用する手形と、武内の母がよく語ったという「人並みの努力なら 人なみで終る」という言葉が書かれた掛け軸が飾られている。本作は2004年の個展「宇宙と人間の霊媒師―武内光仁の世界―展」(池田20世紀美術館、静岡)で展示されたものだが、個展をプライベートで訪れた当時の東京都知事・石原慎太郎が気に入り、同年に都庁のホールで2ヶ月にわたり特別展示をしたという異例の経緯を持つ。

屋外、そして対岸にまで膨張した美術館

 展示は屋外にも続く。バスやバンの廃車を利用した《一役の存在を夢みて》や、大量のボウリングのピンを利用した《落ちて転んで・転んで落ちた7/9の我が人(ボーリングピン183本使用)》、玉石を敷き詰め、そこにネクタイを描いたパネルをサークル状に並べた《紳士たちの昼食会》といった巨大な作品が点在している。

屋外展示場にいくつも植えられている梅の木と、廃車を重ねて制作された《一役の存在を夢みて》
《落ちて転んで・転んで落ちた7/9の我が人(ボーリングピン183本使用)》。ピンは廃業するボーリング場から入手したもので、このように武内は廃棄物も積極的に作品に取り入れた
屋外展示場の最端部に展示されている《紳士たちの昼食会》
川岸の斜面に造成された《太陽の涙》。手前は建設途中で断念された橋

 武内は屋外展示場のみならず、自身で川岸に遊歩道を整備し、対岸にそびえ立つコンクリート製の作品《太陽の涙》を造成。武内が自ら鉄骨を溶接し、練ったセメントを流し込んで制作した本作は、頂上から「涙」として水を30分間隔で放出する機構も備えている。橋で川向うの作品側に渡ることもできるはずだったが、法令の問題もあり未完成のままとなっている。

遊歩道と《銀座田中貴金属からやっと帰ってきた仲間たち(自転車40台使用)》。歩道の柵もすべて武内が溶接して制作した
館内にある休憩室。写真家・武吉束の写真が展示されている

 ほかにも館の内外には武内の作品と所蔵作品1000点以上を展示。さらに武内の活動を記録した写真や新聞の切り抜き、アフリカのマコンデ族の彫像までが渾然一体となって見る者を圧倒していく。館は川岸に張り出すかたちで鉄骨を組んで増築を重ねており、屋外にはさらなる拡張を目指した痕跡も見られた。

 館の鑑賞後、嘉子氏に話をうかがう機会を得た。武内の活動を理解し、支えてきた嘉子氏は、制作を続ける夫への尊敬の念と、病によってその志が途切れてしまったことへの無念さとともに、膨張し続けたこの美術館の行く末への不安も口にする。同館のコレクションは高知県立美術館による調査研究も行われており、同館で開催中の「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」(2月28日〜3月31日)の関連プログラムとして鑑賞ツアーも実施された。しかし、4月以降はこれまでのように通年で開館することは難しいとも語る。

 際限なく広がり続ける創作への欲求と、それによって生み出された圧倒的なエネルギーを浴びるように体感できる美術館。それは周囲の人間を惹きつけ、ときに逡巡や困惑も生み出す。高知の前衛が最終的に行き着いたといえる、美術とは何か、表現とは何かを根源的に問いかけるこの場所のことを、ここに記録しておきたい。

※本館の取材に際しては、高知県立美術館主任学芸員の塚本麻莉氏に案内いただいた。