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2025.7.3

「ルイジ・ギッリ 終わらない風景」(東京都写真美術館)開幕レポート。何が風景なのか、何が風景ではないのか

東京・恵比寿の東京都写真美術館で、イタリアの写真家、ルイジ・ギッリの個展「総合開館30周年記念 ルイジ・ギッリ 終わらない風景」が開幕。会期は9月28日まで。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

展示風景より、左が《ボローニャ、1989-90》「ジョルジュ・モランディのアトリエ」より
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 東京・恵比寿の東京都写真美術館で、開館30周年を記念し、イタリアの写真家、ルイジ・ギッリの個展「総合開館30周年記念 ルイジ・ギッリ 終わらない風景」が開幕した。会期は9月28日まで。担当は同館学芸員の山田裕理。

 ギッリは、イタリアのレッジョ・エミリア県スカンディアーノ生まれ。測量技師としてのキャリアを積んだのち、コンセプチュアル・アーティストたちとの出会いをきっかけに、1970年代より本格的に写真制作を始めた。現実世界の複製ではなく、「見られた」視覚的断片によって風景をつくり出すための手段として写真をとらえていたギッリは、主にカラー写真による実験的な写真表現を行ってきた。また写真専門の出版社「プント・エ・ヴィルゴラ(Punto e Virgola)」を立ち上げ、プロジェクト大学で写真理論に関する講義を行うなど、多岐にわたる活動を展開している。

会場入口

 日本でギッリの名は、その著書『写真講義』をきっかけに知られるようになった。いっぽうで欧米では個展開催やドキュメンタリー映画の発表など、近年国際的に注目されてきた。ギッリのアジア初美術館個展となる本展では、写真制作の初期である1970年代から晩年にかけての約20年間で制作した約130点が展覧されている。

展示風景より、左が《ブレスト、1972》「F11、1/125、自然光」より

 会場は全5章で構成。第Ⅰ章「オブジェクトとイメージ 1一反響し合うイメージ」は、ギッリの初期の活動となる、70年代の作品群を紹介する。当時のギッリは街を歩きながら、イメージの断片を収集して写真に収めていった。会場で作品群を見ていると気がつくが、これらはたんなる街のスナップというわけではない。一見するだけではそこに何かが写っているのか判別できず、複数の要素がコラージュのように組み合わさっているような印象を与える。しばらく作品と対峙することで、ようやくそれが剥がれたポスター、風化した壁面、花といった異なる要素を巧みなバランスで一枚の写真のなかに収めたものであることがわかってくる。

展示風景より、「コダクローム」シリーズ

 こうした手法をギッリは「フォトディスモンタージュ(脱構築された写真)」と呼んだ。私たちが風景を見るときは、必ず目に映るものに優劣を与えている。カフェで対話をする相手を見る瞬間、その後ろに飾られた絵画や手元にあるカップの柄は、存在しないものとされる。ギッリの試みは、こうした恣意性を取り払い、風景における要素すべてをイメージのなかで等価的に扱おうという試みだったといえる。

展示風景より、右が《バスティア、1976》「コダクローム」より

 第Ⅱ章「オブジェクトとイメージ 2ーイメージと記憶の交差」では、「F11、1/125、自然光」や「静物」といったシリーズを取り上げ、その風景への眼差しの深化に迫る。

 「F11、1/125、自然光」には、風景を撮影する人々や美術作品を鑑賞する人々を、その背後から撮影した作品が数多く含まれる。これらは、対象を撮影する存在をまた撮影し、そして生み出された作品を我々が美術館でまた鑑賞するといった、写すものと写されるものの関係を入れ籠のように提示しているといえるが、手前から奥まで広くピントをあわせることが意識されており、何が前景で何が後景なのかが混濁しているのもおもしろいポイントだ。シリーズタイトルにあるように、F値を絞り被写界深度を深くしてパンフォーカスにすることで、前章の「フォトディスモンタージュ」で試みられていた等価性が、奥行きにおいても志向されていたといえる。

展示風景より、左から《ブラーイエス、1979》「F11、1/125、自然光」より

  いっぽうの「静物」は、影の存在を強く意識する写真が多い。絵画の上に落ちた人物の影や路上に落ちる街路樹の影など、これらの影は、被写体ではないが、その空間に確実にあったであろう存在を巧みに示唆する。写真における風景はそのフレームの内側だけでなく、外側にあるものによってもつくられることが、改めて示唆される。

展示風景より、右が《モデナ、1978》「静物」より

 第Ⅲ章「イタリアの風景 1ー場所の知覚」と第Ⅳ章「イタリアの風景 2一既視と未知」では、ギッリの興味が撮影された場所の持つ意味性や、鑑賞するもののなかにある記憶やノスタルジアへと移っていった時代の作品を取り上げる。

展示風景より、右が《フィレンツェ、1986》「イタリアの風景」より

 第Ⅲ章や第Ⅳ章で展示されている作品は、ナポリやカプリといった景勝地、あるいは伝統を感じる建物や雪景色を撮影したものが多い。いずれも美しい風景を「決まった」構図でとらえようとした意図が感じられ、それらの写真からは、これまでの作品に見られた構図や構成といった写真の内部への意識よりも、写真の外部、つまり鑑賞者たちの知覚についての興味が強く感じられる。

展示風景より、右が《パルマ、1983》「イタリアの風景―エミリア通りの散策」より

 対象を画面端によせたり、カメラの位置を高くして広く風景をとらえたりといった工夫は、風景そのものの魅力を引き立て、詩情とも言える感情をもり立てる。いっぽうで、写真はどんどんと朴訥に、そして既視感のあるものになっていく。こうした視覚における意識のルールがどこからやってきているのか、という問いがここには込められていると言えるだろう。個人性を強く感じるポラロイド写真が用いられた作品があるのも、記録性という多くの人々が写真に求める要素をあえて強調しようとしたと思わされる。

展示風景より、左が《アナカプリ、ヴィッラ・サン・ミケーレ、1981》

 最後となる第Ⅴ章「アトリエの風景―内と外/材と不在」では、建築家のアルド・ロッシや画家のジョルジョ・モランディの、アトリエを撮影した写真が最も大きな見どころとなるだろう。

展示風景より、左が《ボローニャ、1989-90》「ジョルジュ・モランディのアトリエ」より

 とくにモランディのアトリエをとらえたシリーズは、まさにモランディの作品に出てきそうな典型的な静物を、静物写真としてとらえている。極めて単純な被写体ではあるが、その背景や小物、あるいは光の回り込みと影のグラデーションなどからは、不思議なことにモランディの筆致に似た、ギッリの眼差しを感じずにはいられない。モランディのアトリエの静物を使い、モランディの絵画のような写真作品をつくる。風景と対峙し続けたギッリがたどり着いた、内部も外部もすべて取り込んで、対象の周囲にあったあらゆる景色を同時に立ち上がらせるような「静物という風景」がここに宿っているようにさえ感じる。

展示風景より、右が《グリッツァーナ・モランディ、1989-90》「ジョルジュ・モランディのアトリエ」より

 あらゆる風景がスマートフォンで撮影され、また撮影をするための風景があらゆる場所で用意される。この時代にあえて、我々は何を「風景」としてきたのか、あるいは何が「風景」ではないのかを深く考えさせる作品群が本展にはある。風景の多様性、あるいはその暴力性も含めて、静かに、鋭い問いをなげかけるギッリの視点が光る展覧会だ。