サンプリングと再構築。松山智一が語る「いまを生きる美術」
ニューヨークを拠点とするアーティスト・松山智一の東京初となる大規模個展「松山智一展 FIRST LAST」が麻布台ヒルズ ギャラリーで開催中。異なる文化、ジャンル、歴史が交差するなかで、多文化主義の変容や宗教、商業とアートの境界を問い直す作品を制作し続ける松山に、近年の制作や新作シリーズ、コラボレーションの意図などについて話を聞いた。

日本での評価と新たな接点の創出
──雑誌『美術手帖』では、2021年の6月号で松山さんの特集が組まれています。そのときは、中国・上海での龍美術館の大型個展がありました。しかし、日本ではJR新宿東口駅前広場のパブリック・アートやギャラリー(KOTARO NUKAGA)での個展があったものの、新型コロナウイルスの影響もあり、日本での発表機会は限られていました。その後、2023年に弘前れんが倉庫美術館で個展「雪⽉花のとき」を開催し、今回ついに東京での大規模個展が実現しました。日本での反響について、率直なお気持ちをお聞かせください。
松山智一 ありがとうございます。正直なところ、まだ実感が湧いていない部分もありますが、ひとつはっきりと感じていることがあります。それは、『美術手帖』が特集を組んでくれたことをきっかけに、美術館のキュレーターたちの目に僕の作品が映り始めたことです。とくにアカデミズムの世界では、僕がアメリカで独立して活動してきたという経歴がユニークなものとしてとらえられ、最初に注目してもらえたのだと思います。

その後、秋元雄史さん、南條史生さん、建畠晢さんといった、日本の美術界を牽引してきた方々が僕の活動を評価してくれました。そうすることで、海外で活動する日本人作家として、ようやく日本の上の世代の方々にも認知されるようになったと感じています。
そして今度は、保坂健二朗さんや木村絵理子さんといった僕らの世代のキュレーターたちが、僕の作品を「いまの日本の美術作家として、欧米圏で活動する立場や距離感、コンテクストのなかで評価できるもの」として受け止めてくれるようになりました。こうして、日本の美術館やインスティテューションとの距離が縮まり、今後の日本の美術シーンを担う人たちに届くようになってきた。日本で僕の作品を広めてくれる方々が増えてきたことを、強く実感しています。
──内覧会には多くの人が訪れ、作品に素直に反応していることが印象的でした。鑑賞者は、言葉で説明されるのではなく、その身体で色彩や構図、ディテールなど作品が持つエネルギーを感じとっているように見えました。松山さんの作品は、美術の専門家だけではなく、より広い層に向けて開かれていることを実感しました。

松山 そうですね。ただ、たんに「ポピュラリティ(大衆性)」という言葉だけで語るのではなく、「美術をどう伝えるのか」ということをつねに考えています。僕はアメリカで活動を始めた当初、表現の場がなかったので、ミューラル(壁画)を描いたり、屋外空間を使ったりしながら少しずつギャラリーへと進出していきました。そして、より大きな舞台に行けば行くほど、美術館で展示されるようになればなるほど、作品が届く層が限定され、鑑賞者数が圧倒的に減るという現実に直面しました。
美術館での展覧会が増えるにつれ、「どうすればアカデミズムの枠を超えて、より多くの人に作品を伝えられるのか」という課題を、より強く意識するようになりました。視覚的なアプローチなのか、メッセージ性なのか、教育的要素なのか──様々な可能性を考えながら、試行錯誤を続けています。
今回の展覧会では、とくに空間のつくり方を重視しました。僕が目指しているのは、「イマーシブ(没入型)」な体験ではありません。しかし、作品と鑑賞者のあいだに対話が生まれ、展覧会全体を通じて時間軸が生まれ、ストーリーテリングのような流れを感じられるようにしたいと考えました。そのために、展示室ごとに名前をつけ、それぞれの部屋がひとつの章のような役割を持つことで、展覧会全体が物語としてつながるように構成しました。