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2025.6.27

望月桂の不敬なユーモア──未来派・アナキズム・へちま。中島晴矢評「望月桂 自由を扶くひと」展

原爆の図 丸木美術館で開催中の「望月桂 自由を扶くひと」展(〜7月6日)。1919年、日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる黒耀会を結成した望月桂の幅広い活動を紹介するこの展覧会を、アーティスト・中島晴矢がレビューする。

文=中島晴矢

展示風景より 提供=原爆の図 丸木美術館
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望月桂の不敬なユーモア──未来派・アナキズム・へちま

 鉄道の線路が敷かれた石畳を2人が足早に行き交う。ひとりは革靴で、もうひとりは足袋に草履。すぐ脇では自動車の前輪が激しく回転し、路面の土を跳ね上げている。足の運びや車の振動、その残像が幾重にも連なるから、雑踏の活気が匂い立って仕方ない。画面いっぱいにダイナミックな躍動感が漲る。絵のタイトルは《反逆性》。1920年、望月桂が黒耀会の第2回展に出品した作品だ。

 黒耀会第2回展は初日に警察の検閲を受け、すぐにいくつかの作品の撤回や画題の変更が命じられた。望月の作品も《反逆性》をはじめ4点に撤回命令が下される。理由は絵画の内容ではなく、タイトルも含めた画題だった。黒耀会の会員と警官の乱闘も発生したらしい。しかし、翌日以降も作品を撤回せず展示し続けたので、5日目に警察が来てそれらの作品を持ち去った。すると望月らは警視庁へ盗難届を提出し、作品の返還請求の訴訟を起こしたという……。

望月桂 反逆性 1920
提供=原爆の図 丸木美術館

望月桂を紐解くキュレーションの条件

 埼玉県の原爆の図 丸木美術館で開催されているのが、その男を紐解く展覧会「望月桂 自由を扶くひと」だ。2022年に結成された「望月桂調査団」の成果を示すこの展示は、望月桂という表現者の全貌を見渡せるようなスケールでつくり上げられている。

展示風景より
提供=原爆の図 丸木美術館

 望月桂調査団は、『前衛の遺伝子:アナキズムから戦後美術へ』(ブリュッケ、2012)の著者である足立元の呼びかけで、研究者、学芸員、ジャーナリスト、文学者、そしてアーティストなど、様々な領域の専門家によって組織されたリサーチ・チーム。郷里である長野県安曇野市での悉皆調査により、かなりの部分まで詳らかになった望月の生涯が、作品と資料の両面を備えて網羅的に公開されている。とはいえ、それはたんなる回顧展ではなく、今日的な視点から「大正の前衛」をとらえ直す試みでもあった。調査団にはアーティストの風間サチコやChim↑Pom from Smappa!Groupの卯城竜太などが参加し、松田修はこの企画展のために映像作品を1点制作している。貴重な資料研究と、令和から大正へのアクチュアルなアプローチ。この2つが本展のキュレーションの導線だと言っていい。

 会場となる丸木美術館という背景もテーマにフィットしている。《原爆の図》を描いた丸木位里・俊夫妻の私設美術館であるそこは、2010年まで美術評論家の針生一郎が館長を務めたことでも知られる、いわば「反逆性」を有したある種の抵抗の拠点。公的なセクターではなく、インディペンデントだからこそ革新的な企画を打つことができる。そんな丸木美術館という空間は、望月の立ち上げた平民美術協会や黒耀会の活動につながっているはずだ。

 では、その望月とはどのような人物なのだろうか。概略を記せば、望月桂(1886〜1975)は岡本一平や藤田嗣治を同級生に、東京美術学校で絵画を学んだ後、神田で「へちま」という一膳飯屋を始める。そこがアナキストや社会運動家、労働者など多彩な人々の集う場となり、専門家に独占された芸術を大衆に開くべく、1917年に平民美術協会を設立。1919年には芸術と社会双方の革命を標榜する黒耀会を結成し、日本初とされるアンデパンダン形式での黒耀会展を開催した。また1926年に横井弘三が企画した理想大展覧会に《死の宣告》を出品して以降、1920年代後半から犀川凡太郎の筆名で漫画や挿絵を手がける。戦後は安曇野市に帰郷して農地改革に尽力し、高校の美術講師を務めながら数多くの風景画を残した。

 上記のような一生を送った望月だが、本展が強調するのは「制作と運営」の両輪である。望月は旧来の美術制度に回収することのできない異端の表現者だった。それゆえ彼の「制作」したタブローを注視するだけでは、「運営」してきた先駆的な事例の数々を取りこぼしてしまう。いわば、へちまをオルタナティブ・スペースとして、平民美術協会や黒耀会を相互扶助的なコレクティブとして、そこで生まれた交流をリレーショナル・アートとして読み替えること。静的な作品の次元のみならず、これらを一種のアートプロジェクトとして立体的に把握することで、日本現代美術史のルーツを「訂正」しようという野心的な目論見がある。

 それは卯城と松田が2人の共著『公の時代』(朝日出版社、2019)から継続して議論してきた問題意識だ。彼らは大正時代を公権力が強圧的に振る舞う「公の時代」と定義し、「個」による相互監視も加えた「公」の存在感が増す現在の社会状況に通じると指摘する。これまで見過ごされがちだった「大正の前衛」を掘り下げることにより、美術史のラインを引き直して現代における社会や芸術の再構築を目指した。現に、その企ては「にんげんレストラン」(旧歌舞伎町ブックセンタービル、2018)や「ダークアンデパンダン」(オンライン/都内某所、2020)として実現している。

 上記が前提条件にあたるが、本展を包括的に論じるのは筆者の手に余る。その全体像は、緻密な研究を経て会場に展開された文物と、数量限定で配布されている『展覧会 ZINE』に詳しい。そこで本稿では当時の時代背景を確認したうえで、望月によるへちまの活動と黒耀会展の出品作に焦点を絞って見ていこう。

展示風景より 提供=原爆の図 丸木美術館

大杉栄と一膳飯屋へちまのアナキズム

 望月を語るうえで欠かせないのが、アナキズム運動のカリスマである大杉栄だ。谷中のへちまで出会った2人は、交流を通して互いの思想に関心を寄せ、後に共著を出版するほど信頼関係を築いた。その共働はやがて黒耀会として結実するが、大杉栄はどのような存在であり、アナキズムとはどんな思想だったのか、時代状況と絡めながら簡単に理解しておく必要がある。

 日本でアナキズムがもっとも流行したのは大正時代だ。明治末、西洋思想として社会主義が輸入されると、中江兆民の弟子の幸徳秋水がその中心人物となり、アナキズムに接近。しかし、幸徳秋水は1910年の大逆事件によって天皇暗殺謀議のかどで処刑された。この大弾圧後、社会主義運動はいわゆる「冬の時代」を迎える。その閉塞した状況を打ち破ったのが幸徳の弟子の大杉栄だった。大正時代になって大杉は無政府主義者として躍動。伊藤野枝らと自由恋愛を実践しながら、世界を股にかけて労働運動を支援すべく奔走する。だが、最期は1923年9月、関東大震災直後の混乱の最中に憲兵隊によって虐殺。これを機に精神的な基盤を失ったアナキズム運動は衰退していった。

 こうして破天荒な人生を駆け抜けた大杉は、自然と人が周囲に集まってくる魅力的な「気質」を持っていたそうだ。そんな彼の痕跡は本展にも散りばめられている。大杉の手による絵かき歌のような自画像《入獄前のO氏》(1919)や、望月の水彩画《ある日の大杉》(1920)。横江嘉純によるブロンズの《大杉栄像》(1924)は「眼の男」大杉の鋭い眼光を見事に掴んでいた。

望月桂 ある日の大杉 1920
提供=原爆の図 丸木美術館

 そもそも、大杉が体現したとされるアナキズムは矛盾を孕んだ思想である。浅羽通明『アナーキズム』(筑摩書房、2004)によれば、アナキズムとは「権力を頂く組織も、代表も拒絶して、直接行動による反逆のみを方法とする」「自由の原理主義」だ。いっぽうで、国家も政府も財産制度もなく、個人が平和に連合し相互に扶助し合う「権力なき絶対自由のユートピア」を夢想する。ポイントは、アナキズムが社会主義や共産主義で必要悪とされる「反権力の権力」をも見逃さないこと。すべてを否定しながら理想を夢見る、このアンビバレントな「反逆とユートピア」の同居こそが、楽天的とすら言えるアナキズムの精神だった。

 こうしたアナキズムの指向を結晶化した空間が、一膳飯屋へちまではなかったか。先述のように、へちまは大杉をはじめとする活動家や労働者など、多種多様な個の寄り合うアジールとして機能している。また、食器類に絵を彫ったり焼き付けたりと、自ら工夫して手がけたその食堂は、望月の表現行為が詰まった「作品」でもあった。いまから振り返れば、ゴードン・マッタ=クラークがアーティストたちと運営したレストラン《FOOD》(1971)に代表される、アーティスト・ラン・スペースやオルタナティブ・スペースの先駆けのようにも見える。望月にとって、「芸術即生活、生活即芸術」(有島武郎)を具現化したへちまは擬似的な「ユートピア」だったはずだ。もっと言えば、現実に存在した理想郷という意味でミシェル・フーコーの提唱する「ヘテロトピア(異在郷)」だと考えることもできる。

 もちろん、「ユートピア」としてのへちまは「反逆」の拠点でもある。理不尽で強権的な政治に対する否定だけではない。後に「黒耀会宣言書」(1919)で「現代の社会に存在する芸術は、在る特殊の人々の専有物(…)此様なものは遠慮なく打破して吾々自主的なものを獲らねばならぬ」と掲げるように、それは権威的で閉塞的な芸術制度への批判だった。とはいえ注視すべきは、その「反逆」がテロや暴動というかたちではなく、店名の脱力感に象徴されるユーモアによって発揮されていたことだ。当時の広告文には「腹がへつてはどうもならん/先づ食ひ給へ飲みたまへ/腹がほんとに出来たなら/そこでしつかりやりたまへ」とあり、庶民に寄り添う望月の人情味あふれる人柄が伝わってくる。なにより望月は、ここで創出されたコミュニティをこそ大事にしていたのだろう。

 このコレクティブを母体に、労働者のための絵画教室である平民美術協会、そして「芸術革命」であり「社会革命」としての黒耀会が結成され、4度ほど展覧会を開く。参加者の顔ぶれは、大杉栄、コミュニストの堺利彦、柳田國男の右腕だった橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊、そして小説家の島崎藤村や高村光太郎などバラエティに富んでいた。アンデパンダンである黒耀会展は「多ジャンルによる超クロッシングイベント」(松田修)(松田修、『公の時代』)だったのだ。

 そのせいか、美術家ではない彼らが紙に墨で描いた「絵画」は、俳画や文人画を思わせる興味深い代物である。例えば宮崎安右衛門の《無銭王国》(1920)は、「ユートピア」的な貨幣制度の廃止を訴える立札と棒人間を気の抜けた線で描いた。ほかにも、アナキズムで「反逆」を意味する爆弾とドクロのモチーフを反復しつつ、基本的には落書きや寄せ書きなど「何でもあり」。美術作品に漫画風の絵柄を取り込んだのもいま思えばあまりに先駆的だ。

 美術家のみならず、活動家や芸人などがジャンル横断的に結集した黒耀会。卯城が「いまわれわれがやっている日本の現代美術的な表現は(…)この黒耀会がスタートに見えるって言ってもおかしくなくない?」(『公の時代』)と言うように、この活動を日本の前衛の始祖と見立てることは可能だろう。事実、コンテンポラリー・アートのルーツとされる20世紀初頭のアヴァンギャルド運動において、ダダイズムはチューリヒのキャバレー、シュルレアリスムはパリのカフェが発祥。また未来派が『寄席宣言(ヴァラエティ・ショー)』(1913)で提示したように、それらの芸術運動を牽引してきたのは非美術家たる詩人・扇動家・芸人たちだった。翻って、一膳飯屋から誕生したグループ、そしてその最初の対外的活動が「パフォーマンス」だったことを鑑みても、黒耀会を日本現代美術の起源とする史観はオーセンティシティを宿している。

「政治」を風刺する不敬なディスクール

 こうした世界的同時性のもと黒耀会展に出品された望月桂の平面作品には、未来派の影響を色濃く認めることができる。本稿冒頭で取り上げた《反逆性》に加えて、《製糸工場》(1920)や《遠眼鏡》(1920)にはジャコモ・バッラやウンベルト・ボッチョーニによく似た運動性が描かれていた。

 肝要なのは、そうした形式の一致に反して、主題である「機械」の取り扱いが真逆であること。マリネッティが『未来派宣言』(1909)で「疾走する自動車は《サモトラケのニケ》より美しい」と謳ったように、イタリア未来派は新たなテクノロジーとしての「機械」を手放しで礼賛する。だが、望月はそれを冷たく非人間的なものとして批判的に捉えた。そのため、《製糸工場》では「母性保護論争」を引き起こした女工の低賃金問題を、《機械は大丈夫か》では手首が切断された印刷工の労働災害を告発する。こうして未来派的な技法を用いながら反機械主義的なメッセージを込めることで、望月はアイロニカルな独自の表現様式を獲得していたのだ。

望月桂 製糸工場 1920
提供=原爆の図 丸木美術館

 なお、「機械主義」は当時の文化的な環境における重要な共通前提だった。そのコンテクストに則って書かれたのが、例えば新感覚派・横光利一の『機械』(1931)である。ネームプレート工場を舞台に、主人と3人の職人による心身の格闘を改行や句読点の極端に少ない文体で綴った小説だ。たしかに『機械』はプロレタリア文学的な物語の設定より、いわゆる「第四人称」を駆使した実験的なスタイルのほうに力点を置いていた。だが、前衛的な手法と反機械主義的な内容の共存という意味で望月作品に重なるところがある。野中潤は『機械』を「メタ・プロレタリア文学」だと評したが、それに倣って《反逆性》や《製糸工場》を「メタ・プロレタリア美術」と言うこともできるだろう。

 そして、本展で一番の問題作となるのが大正天皇を描いた作品《遠眼鏡》(1920)だ。世間に流布した「遠眼鏡事件」を戯画化した本作は、未来派的ないし俳画的な手法によって天皇の姿を直写した。「遠眼鏡事件」とは、意思薄弱という噂のあった大正天皇が帝国議会の開院式で詔勅を読んでから、その勅書を丸めて遠眼鏡のように議員席を見渡したとされる風説。黒耀会第2回展に出品され、むろん警察によって撤回・没収された作品のひとつである。

望月桂 遠眼鏡 1920
提供=原爆の図 丸木美術館

 当時の社会状況において、「御真影」以外で天皇を描くことに対する忌避感は現在の比ではなかった。例えば小林多喜二は『蟹工船』(1929)の描写が「不敬罪」と見なされ、治安維持法違反にふれたとして投獄される。当該のシーンとは、皇室への献上品となる蟹缶詰をつくる漁夫の「石ころでも入れておけ!──かまうもんか!」という台詞。後に多喜二は特攻警察による激しい拷問で死に至るが、これほど天皇に関する表現は不自由を強いられていた。

 文芸批評家の渡部直巳は『不敬文学論序説』(1999)のなかで、天皇をめぐる言説空間では「周囲に数多くの文字を欲すると同時に、肝心のものは隠す」という「転倒的な遠近法」が働くと分析する。不敬罪や大逆罪の敷かれた世の中にあって、この近づくと同時に遠ざかる「接近=回避のディスクール」は、少数の例外を除いて天皇表象の主流をなしていた。その例外のひとつこそ、望月桂の《遠眼鏡》にほかならない。

 墨と水彩によるシンプルな線で、画面右上には大きく大正天皇の顔が、下部には有象無象の議員たちの後頭部が描かれ、中央の大部分を「遠眼鏡」とその残像が占めている。右目を閉じ、眉間にぐっと力を入れて、丸めた勅書を左目で覗き込む大正天皇のその大真面目な表情。よく見れば、勅書の先から黒目がぴょこぴょこ飛び出しているのもユニークだ。なるほど、それはリアリズムではなくカリカチュアだろうが、画面上で天皇へと無媒介に「接近」し、その相貌をあっけらかんと描出してしまっているのは間違いない。《機械は大丈夫か》らと同様のセオリーを適用すれば、この絵からは画題への批判精神を汲み取ることもできる。

 もちろん別の作家にも「不敬」な作品は見られるが、その批評性は望月特有のものだろう。例えば、大正天皇を直写した例外のひとつに中野重治の詩「雨の降る品川駅」(1929)がある。母国へ帰る朝鮮人を見送りながら、語り手は「日本の天皇」について「彼の髪の毛」「彼の狭い額」「彼の眼鏡」「彼の髭」「彼の醜い猫背」と細部まで言葉にしてから、きわめて不穏で暴力的な「大逆」の光景を幻視するのだが、そのむき出しの直截性はすさまじい。もっとも戦後の「政治と文学」論争に自明なように、共産主義者である中野にとって、「文学」はあくまで「政治」に従属するものだった。いっぽう、望月作品には「政治」と「文学(=美術)」がよりフラットに並置されている印象を受ける。中野の「政治>文学」が言葉によるテロリズムだとすれば、望月の「政治 ≶ 美術」はユーモアとアイロニーが行き来する「風刺」のはずだ。その飄々たる筆致は、どちらかと言えば皇太子と皇太子妃の「首」が「スッテンコロコロ」と転がる深沢七郎の小説『風流夢譚』(1960)を思わせもする。

 付言すれば、天皇像を露骨に描いたこれらの作品も「接近=回避のディスクール」から完全に解放されていたわけではない。《遠眼鏡》が警察に押収されたように、やはり「雨の降る品川駅」もまた、天皇にまつわる文言を伏字にする検閲がなされ度重なる改稿を経ることになる。言うまでもなく、『風流夢譚』も右翼団体の講義や圧力を受けて自主規制がなされた。すなわち、たとえ作品の内部において天皇に「接近」し得たとしても、なんらかの介入によって、作品の外部でそれを隠し遠ざける「回避」の力学が発動するのである。

 そうした事情を考慮しても、いや、むしろそれゆえにこそ、大正期に生み出された《遠眼鏡》は、日本近代美術史における特筆すべき怪作だった。しかも丸木美術館では「回避」の力学から自由に本作を鑑賞することが可能なのだ、いまのところ幸いにして。

多元的でラディカルな現代アートのパイオニア

 関東大震災が発生してから黒耀会周辺の状況は変化していく。震災後の混乱のなかで「社会主義者や朝鮮人が暴動を起こす」という流言蜚語が蔓延。大杉栄は虐殺され、望月は留置所に入れられた。

 また、大杉虐殺の報復として陸軍大将への狙撃未遂事件を起こした望月の仲間である古田大次郎は絞首刑に、和田久太郎は無期懲役に処される。その翌年に理想大展覧会へ出品された《死の宣告》(1929)は、古田への弔いとして制作されたコラージュ作品だ。幾何学的に構成された画面の中に裁判の「傍聴券」が貼り付けられ、古田の人相や爆弾とドクロが配された、戦間期における望月作品の集大成だった。

 1928年には和田が獄死する。それを受け、望月は安曇野の家の庭に和田の遺灰を播いて花を育て、押し花にして仲間に贈った。後のダダカンを想起させもする、《あの世からの花》と題されたその「鎮魂のメールアート」(足立元)(足立元『前衛の遺伝子』)は、やはり日本の前衛の特異点として歴史に刻まれるべきものだろう。

 ことほどさように、へちま、アナキズム、平民美術協会、漫画、アンデパンダン、黒耀会、未来派、反機械主義、不敬作品……と、他に類を見ないほど多元的なアーティストだった望月桂。すべてにおいて早すぎたとすら思えるラディカルな「制作と運営」を実行した彼は、日本の現代アートのパイオニアのひとりであると言って過言ではない。

望月桂 あの世からの花 
提供=原爆の図 丸木美術館