2026.3.27

揺らぐ世界のなかで開幕した「アート・バーゼル香港2026」。アジアに向かう視線と香港市場の現在地

中東情勢の緊迫化や世界的な不確実性の高まりのなかで開幕したアート・バーゼル香港2026。市場の揺らぎと対照的に、アジアの相対的な安定性が改めて注目を集めている。本稿では、現地の動向と関係者の声から、香港市場の現在地を探る。

文・撮影(*を除く)=王崇橋(編集部)

会場風景より、TARO NASUのブース Courtesy of Art Basel*
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  今年2月、カタールで初開催された「アート・バーゼル・カタール」の熱気が冷めやらぬなか、アメリカとイスラエルによるイランへの攻撃を契機に中東情勢は急速に緊迫化し、世界は再び不安定な局面へと突入した。原油価格の高騰や輸送コストの上昇といった影響が広がるなか、アジア最大級のアートフェアである「アート・バーゼル香港」の2026年版が開幕した。

 本年のアート・バーゼル香港には、41の国・地域から240のギャラリーが参加。開幕に先立ち、香港のローズウッド・ホテルで開催されたウェルカム・レセプションにおいて、アート・バーゼル チーフ・アーティスティック・オフィサー/グローバル・ディレクターであるヴィンチェンツォ・デ・ベリスは、「アート・バーゼル香港は、世界中のアート・バーゼルのなかでも独自の位置を占めている。アジアへのゲートウェイであると同時に、この地域の持つ深みや複雑さ、そしてダイナミズムを映し出す存在であり、国際的なネットワークを接続する重要な役割を担っている」と述べた。そのうえで今年のテーマとして、ローカルとグローバルの実践を横断的に結びつける「コネクティビティ」を掲げ、文化的・商業的エコシステムの接続を強調した。

会場風景より、オオタファインアーツのブース Courtesy of Art Basel*

再評価されるアジアのマーケット

 今年3月に発表された「Art Basel and UBS Global Art Market Report 2026」によれば、2025年の中国のアートマーケットは、不動産市場の低迷や消費者心理の悪化といった経済的要因を背景に、前年比1%増の約85億ドルとほぼ横ばいにとどまった。また、より国際志向の強い香港市場は、グローバルな不確実性の影響を受けやすい構造にあることも指摘されている。

 こうした状況にもかかわらず、今年の香港のマーケットムードは総じて楽観的だ。その背景には、トランプ政権下のアメリカにおける政策や市場の不透明性が増すなかで、中国および香港の政治・経済環境が相対的に安定し、予測可能性を備えていると受け止められている点があるだろう。

 この点について、アート・バーゼル香港ディレクターのアンジェル・シヤン=ルーは「美術手帖」の取材に対し、「中東経由で渡航予定だった来場者がフライトの変更を余儀なくされるなどの影響はあった」としながらも、「多くのコレクターが最終的には来場した」と振り返る。そのうえで、「現在のアジアは比較的安定した状態にあり、このタイミングでアジアを訪れたり、投資や鑑賞の対象として注目する動きが強まっている」と指摘する。

会場風景より、「エンカウンターズ」セクターの様子 Courtesy of Art Basel*

香港で生まれる新たな動き

 実際、今年の香港アートウィーク期間中には新たな動きも相次いだ。上海のギャラリー「Antenna Space」が香港に新拠点を開設したほか、元大館コンテンポラリーのディレクターであるトビアス・ベルガーが関わる新スペース「GOLD」が始動。また、アート・バーゼル香港およびアート・セントラルに加え、今年1月に台北で新たに立ち上がった「PAVILION」の香港版、スーツケースサイズの作品に特化した「WEEKENDERS: suitcase art fair」など、新たなフェアも同時期に開催され、都市全体としてのアート・エコシステムの広がりが一層顕在化した。

会場風景より、Antenna Spaceのブース

 アート・バーゼル香港のVIP初日には、メガギャラリーやブルーチップギャラリーを中心に比較的好調なセールスが報告された。ハウザー&ワースは、ルイーズ・ブルジョワの紙作品4点組を295万ドルで、ジョージ・コンドの絵画を230万ドルで販売したという。同ギャラリー社長のマーク・パイヨは、「来場者の層の高さは驚くべきもので、アジア各地から非常に質の高いコレクターが集まっている」と述べたうえで、「市場を大きな危機とは捉えていない。確かに需要はやや落ち着いているが、最終的には何を見せ、どのように提示するかが重要だ」と指摘した。

会場風景より、ハウザー&ワースのブース

 Paceは、アレクサンダー・カルダーの大型モビールや、今月同ギャラリーに加わったアニカ・イなど、複数の作品を販売したという。社長兼CEOのマーク・グリムシャーは、「中東情勢の影響もあり、資金が香港に回帰する可能性がある」としつつ、「現在の市場のセンチメントは非常に複雑で、単純に捉えることはできない」と語る。

会場風景より、Paceのブース

 そのほか、デイヴィッド・ツヴィルナーは、劉野(リウ・イエ)の2006年の絵画を380万ドル、マルレーネ・デュマスの2002年の絵画を350万ドルで販売。Bastianギャラリーも、パブロ・ピカソによる1964年の油彩を約350万ユーロで売却した。

会場風景より、デイヴィッド・ツヴィルナーのブース

 ファーガス・マカフリーは、「全体的なムードは良好で、出展内容の質も高い。私たちは非常に楽観的に見ている」と語り、「アジア市場の重要性はコレクターだけでなく、美術館などの機関においても急速に高まっている」と強調する。中国本土での新たな美術館の開館などを挙げながら、アジアの存在感が一層強まっている現状を指摘した。

会場風景より、ファーガス・マカフリーのブース

香港のハブ機能をいかに活かしていくか

 そのいっぽうで、中小規模のギャラリーや日本勢からは、やや異なる現場感覚も聞かれる。Yoshiaki Inoue Galleryは、吉原治良吉原通雄元永定正らの作品を紹介。ディレクターの井上彰人は、「昨年と比べると来場者数はやや少ない印象」を指摘しつつも、「作品そのものにしっかりと関心を寄せる来場者が多く、コレクターの目利きや全体的なクオリティはむしろ向上している」と語る。

会場風景より、Yoshiaki Inoue Galleryのブース

 また、今年初めてメインセクター「ギャラリーズ」への出展を果たしたYutaka Kikutake Galleryは、毛利悠子やトレヴァー・ヤン、片山真理などによるグループ展を展開。代表の菊竹寛は、「香港では最終日まで作品が売れる傾向がある」としたうえで、「中東方面への移動が難しく、ヨーロッパも航空券の高騰が続くなかで、『今回の香港で何か作品を購入できれば』と考えるコレクターが多い」と指摘する。地政学的状況や移動コストの上昇が、香港への購買需要を押し上げている可能性を示唆した。

会場風景より、Yutaka Kikutake Galleryのブース

 近年、アート・バーゼルによるアートウィーク東京の支援を背景に、香港における日本のギャラリーやコレクターの存在感も高まりつつある。菊竹はその波及効果について、「異なる層のコレクターが東京を訪れ、多様な作品に触れる機会が生まれることは重要だ。その結果、日本の視点が広がり、アジアとの接点が増えていくという意味でも意義は大きい」と強調する。

 現在の世界情勢を踏まえ、アンジェル・シヤン=ルーはアート・バーゼル香港のビジョンについて、「情勢に応じて方針を変え続けるだけでは、持続的なアート・エコシステムを構築することは難しい」とし、「エコシステムの育成に焦点を当て、長期的なビジョンのもとで基盤を築いていく必要がある」と語る。

会場風景より、「エンカウンターズ」セクターの様子

 この点について、今年2月に大館の副館長兼アート部門統括に就任した、元UCCA現代アートセンター館長のフィリップ・ティナリも、香港の現状をより制度的な観点から捉える。「香港における文化インフラの整備は、すでに一定の完成段階に達している。現在問われているのは、その基盤のうえでアート・エコシステムをいかに発展させていくかという点だ」とし、「10年前と比べて香港は大きく成熟し、市場だけでなく文化的生産を支えるリソースも整ってきた。今後は、制度や機関のエコシステムをいかに構築し、その有効性を高めていくか、そしてローカルと国際双方の観客にどのように応えていくかが重要になる」と指摘する。

 地政学的リスクと市場環境の変動が交錯するなかで開催された本年のアート・バーゼル香港。相対的な安定性を背景にアジアへと関心と資金が再び引き寄せられつつある現在、香港がいかに制度・市場・文化の各レベルでそのハブ機能を持続的に更新していくのか。その動向は、今後のグローバルな美術市場の再編を読み解くうえで、重要な指標となり続けるだろう。

会場風景より、「エンカウンターズ」セクターの様子